サドをめぐる断想(11)

 私はここで『伝道の書』を開けて、読むのよ。

『私は人間の子等について心の中でこう言った。神はそれをありのままに見せ、本当に自分は獣だと彼等に悟らせるのだ。人間の行末と獣の行末は同じものだ、人間も死に、獣も死ぬ。二つとも同じ息をしている。人間が獣にまさるというのは空しいことだ。二つとも同じ所に行く。二つとも塵から出て塵に帰る』

 この詩ほど決定的に来世の存在を否定しているものはないでしょうね。

(「ジュリエット物語又は悪徳の栄え」サド著 佐藤晴夫訳 357頁)

 

J’ouvre l’Ecclésiaste, et j’y vois :

L’état de l’homme est le même que celui des bêtes. Ce qui arriv aux hommes et ce qui arrive aux bêtes est la même chose. Tell est la mort des uns, telle est la mort des autres ; ils ont tous un même souffle, et l’homme n’a point d’avantage sur la bête ; ou tout est vanité, tout va dansle même lieu, tout a été fait de poussière, et tout retourne dans la poussière. (Ecclésiaste, chap. , v. 18,19 et 20.)

Est-il rien de plus décisif, contre l’existence d’une autre vie, que ce passage ?

(“Histore de Juliette ou les prospérités du vice” Marques de Sade)

 

 サド的人物による論理は、快楽の根拠を衝撃の大きさに求めている点でワンパターンで単調な説明のように思われるが、犠牲者の苦痛という衝撃が快楽に変わるのは、単なる量的大きさに根拠があるのではなく、加害者と被害者の受ける衝撃の質的差異に基づいている。つまり被害者の受ける衝撃と、それを観察する加害者の第二の衝撃が、ベクトルの異なる衝撃であるにも関わらず同一視されるのは、両者が自然の再生という人間よりも大きな構成関係の統一に包摂されるからである。したがってサド的論理を正確に理解するには、衝撃という現象にとらわれてはならない。その背後にある自然の形相的本質=構成関係による理解が必要である。

 それにしてもこの論理はノアルスイユやクレアウィルによって何度も繰り返されるので、いささか食傷気味になるが、サン・フォンが新たに登場すると、衝撃による快楽の根拠付けとは異質の論理が展開されるようになる。この人物は来世を信じており、犠牲者の苦痛が来世においても永遠に継続するように、悪魔的神秘家から伝授された秘法を犠牲者に施すのである。

 上記の引用部分は、これに対するクレアウィルの批判である。この女性は聖書を引用して来世が存在しないことを証明している。

 Ecclésiasteというのは「伝道の書」と訳されているが、日本聖書協会版の聖書では、旧約聖書の「コヘレトの言葉」に該当する。クレアウィルの指摘するとおり、来世の存在が否定されているので、キリスト教徒からみれば衝撃であろう。

 ならばキリスト教徒は聖書のこの引用部分をどう考えているかが気になる。プロテスタント神学者のA.E.マクグラスによると、次のとおりである。

 

 コヘレトの言葉はおそらく旧約聖書でも最も悲観的な書であろう。(中略)この書に困惑する読者も多い。これが、聖書的な見方の一般的な型に容易に適合しないように見えるからである。(中略)これは、神なしの人間の生活の惨めさと不毛さをまざまざと描いて見せ、神を完全に明らかにすることは人間の知恵にはできないのだということを表している。

(「旧約新約聖書ガイド」A.E.マクグラス著 本多峰子訳 273頁)

 

 このようにマクグラスは「旧約聖書でも最も悲観的な書であろう」というが、私はそうは思わない。引照つき聖書によると、引用部分は創世記や詩編とも関連する部分であり、「塵から出て塵に帰る」という部分は旧約聖書の他の箇所でも頻繁に述べられている。つまり来世の存在を否定する考えは旧約聖書の一般的な型に容易に適合するのである。むしろ適合しないのは肉体の復活を説く新約聖書の福音の方であろう。(キリスト教の教義では霊魂だけでなく肉体も復活する。)

 スピノザ思想においても、人間精神の本質は永遠のものとして神の本質に包摂されるとするが、肉体の方は因果系列の持続相において他の個体により滅ぼされるとしており、肉体の復活を説いてはいない。してみるとスピノザ思想は、明らかにキリスト教的ではなくユダヤ教的であると思われる。

 以上から、クレアウィルは来世を否定するために「伝道の書」を引用しているが、その主張の当否は「来世」の定義如何によると言えよう。「来世」を福音的な肉体の復活と定義するなら、それは確かに旧約聖書によって否定されている。

 だが問題はそう単純ではない。マクグラスの主張は、「聖書の一般的な型」ではなく、「聖書的な見方の一般的な型」ということである。これはどういうことか? 

 私見では、マクグラスは「聖書的な見方」という言葉で、旧約と新約を統合する見方を示していると思う。つまりユダヤ教が肉体を可滅とし現世肯定的であるのは分かり切ったことであり、新約による福音の考えは、常にそのことを信仰の糧としているのである。あたかも理性が狂気を必要とするように、福音の信仰にとって旧約の悲惨が必要なのである。来世が存在することを単純に信仰することは真の信仰ではない。むしろ旧約聖書のとおり来世が存在しないのは確かである。にも関わらず来世が存在するというのは不合理であるが、だからこそ、人知を超えた福音というわけである。

 マクグラスはあまり展開していないが、この方向で信仰のあり方を突き詰めていくとキルケゴールになる、と私は思う。実際、キルケゴールは福音的な信仰を深めるために、アブラハムやヨブなど旧約聖書を素材としているが、それは新約的な思考の王道である。

 したがってクレアウィルがいくら旧約聖書を引用したところで、信仰がぐらつくほどキリスト教徒は柔弱ではない、と私は思う。

  ただ、サドが人類学や哲学を網羅した百科全書的博識を持つだけでなく、聖書にも通暁していることは確かであり、その作品が単なる艶笑文学の枠を超えていることは明らかである。