エチカをめぐる断想(16)

第三部 感情の起源および本性について No5

 

定理10 我々の身体の存在を排除する観念は我々の精神の中に存することができない。むしろそうした観念は我々の精神と相反するものである。

定理10証明 すべて我々の身体を滅ぼしうるものは身体の中に存することができない。

(「エチカ」畠中尚志訳)

 

 これは「定理5により」とあるが、あらためてそのことの意味を考えてみると、スピノザの本質観が独特であることが分かる。というか私が「本質」をあまり深く考えていないだけであるが。スピノザの本質が存在と結びついていることは前回触れたとおりだが、そのことは本質に含まれるものは必ず実現することを意味する。逆に言えば、現在かくかくしかじか在るということがそのまま本質に含まれるのである。そして本質に含まれないようなものは決して現実化しないのである。

 個物同士は確かに力能の差によって対立し相争うものであるが、個物それ自体の本質は個物の存在を示しているだけである。その存在のあり方が自己原因(神)であれば本質は存在そのものであるし、一時的存在(様態)であればその本質は存在への固執となる。

 ということは、個物が一時的にもせよ存在するということは、その本質に存在への放棄は含まれないということである。「身体の中に存することができない」というのは、身体の本質に身体を滅ぼしうるものが存し得ないということである。

 現代人としては老化遺伝子などの反証例が思い浮かぶのだが、スピノザは「老衰死」をどう考えていたのだろうか? その論理からすると老衰もまた外的原因ということになりそうだ。

 そこで定理5を参照してみると、「物は一が他を滅ぼしうる限りにおいて相反する本性を有する。言い変えればそうした物は同じ主体の中に在ることができない」(「エチカ」畠中尚志訳)とある。

 すると定理10の証明には飛躍があるように思われる。ここでスピノザは「物」と「身体」をすり替えているからだ。「物」の場合は、確かにその物の存在を否定するような本質を考えることはできないだろう。だが、個物によって構成される身体の場合はどうか? 癌細胞は身体細胞が変化したものであり、身体の構成関係を解体するように働く、つまり我々の身体を滅ぼしうるものが身体の中に存するのではないか?

 身体と身体を構成する個物との関係は『エチカ』第二部要請で詳細に記述されているのだが、構成する同じ本性を持つ個物が入れ替わる場合(呼吸や栄養摂取のことであろう)、構成する個物の運動関係が維持される場合は、身体の形相(本質)は変化しないということである。

 すると個物のコナトゥスと身体(構成関係)のコナトゥスを区分して考えるべきであろう。

 個物のコナトゥスとしては癌細胞も健常細胞もともに自己の存在を否定するような本質をもっていない。だが身体の構成関係としてみると確かに癌細胞は身体の構成関係を破壊するように働く。だがその場合であっても身体の構成関係が破壊され死に至らない限り、構成関係としては存続している。

 つまり病気や老衰により身体が衰弱していくことはあるが、その衰弱した状態は実在としてそれなりに完全であり、身体の本質である存在への固執は変化していないとみることができる。というか我々の身体は常に対立する個物を構成関係の中に含んで存在しているのであり、健康な状態も相対的な意味しかない。

 こうしてみると癌細胞も個物としては自己否定しないし、身体の構成関係もたとえ衰弱しても構成関係がある限り自己否定はない。スピノザの本質観によれは、本質としてなしうることは必然的に現実の存在となる。逆にみれば、たとえ衰弱していても存在している限り、その本質には存在への固執が否定されず含まれているのである。

 

定理10証明続き したがってそうした物の観念は神が我々の身体の観念を有する限りにおいて神の中に在ることができない。言いかえればそうした物の観念は我々の精神の中に在ることができない。(「エチカ」畠中尚志訳)

 

 やはり私の読解は当たっているような気がする。定理10もその証明も、コナトゥス(存在への固執)を一元的に捉えていたのでは、矛盾したことを言っているようにしか見えないからである。

 つまり個物のコナトゥスよりも次元の高い身体の構成関係のコナトゥスを考える必要がある。なぜなら、どうみても身体の中に身体を破壊するような個物が含まれうるからだ。例えば毒を飲んだ身体がそうだ。確かに毒は外的原因かもしれないが、毒は身体の構成関係に浸透して身体の一部にならないかぎり、その構成関係を破壊することはない。

 これが精神の段階になるとなおさらそうであり、我々は身体を破壊するような物の無数の観念を持っている。ウィルスも毒物も北朝鮮のミサイルもすべてそうだ。あるいは「自己否定」という観念をもつこともできる。

 だから定理10が言っていることは、人間精神は知識として毒物や病原菌などの観念をもつことができないと言っているのではない。人間精神はそれらの観念によっても構成されているのだが、構成関係としてみた人間精神それ自体を破壊するような観念をもつことができないと言っているのである。

 ドゥルーズが『差異と反復』で言っているように、ヘーゲルの「自己否定」が贋のドラマであるというのはそういう意味だ。我々は「自己否定」という観念を持つことができるし、精神の自己否定によって歴史を説明する「弁証法」という観念を持つこともできる。しかし、それらの諸観念によって構成された人間精神それ自体を否定し破壊するような観念を持つことはできないということである。

 ここで「我々の身体の観念を有する限りにおいて神の中に在ることができない」と保留しているのは、神は無限の観念を持つので、我々の身体や精神を破壊する観念も持ちうるからである。ただ、ここで「限り」と限定するのは、言わば神が我々に変状している限り、ということは我々の精神の内側ということだが、その範囲では、自己の存在を破壊する観念を持つことができないと言っているのである。

 以上から定理10の「我々の身体の存在を排除する観念」とは、ウィルスや病原菌などの個物の観念ではないことは明らかである。それらが我々の精神の中に存在していることを否定できないからである。ここで「精神の中に存することができない」というのは、そうした個物ではなく、身体という構成関係を否定し破壊するような観念である。言い換えれば、もし、そのような観念が存在するとすれば、それはウィルスや病原菌などの個物の観念よりもっと凄いものである。恐らく「無限の仕方で産出する」神のみが持ちうる観念であろう。

 また、身体の構成関係から離れてウィルスや病原菌を個物それ自体としてみると、同様にウィルスや病原菌が自らを否定するような観念を持つこともできないのである。(もちろん神がウィルスや病原菌に変状した限りにおいてだが)スピノザの論理には、自己を含めてすべての存在の肯定がある。

 

 

エチカをめぐる断想(15)

第三部 感情の起源および本性について No3

 

定理5 物は一が他を滅ぼしうる限りにおいて相反する本性を有する。言いかえればそうした物は同じ主体の中に在ることができない。(「エチカ」畠中尚志訳)

Res eatenus contrariae sunt naturae hoc est eatenus in eodem subjecto esse nequeunt quatenus una alteram potest destruere.

 

 この定理は読めば意味は分かる。私が気になるのは、それは最初から気になっていたことでもあるが、いったいスピノザは「本質」essentiaと「本性」naturaとを、どう使い分けているのかである。スピノザほどの厳密な思考をする人が単なるフィーリングで使い分けているとは思えない。この疑問は長い間シコリになって、様々な解説書を渉猟したのだが、あまりにも初歩的な疑問なのかどこにも説明は見当たらなかった。だが、私は逆にこの疑問こそが根源的な問いであり、この二つの言葉の違いの意味が分からなければスピノザ思想が分かったことにならないと思うようになった。そこで徹底的に考えてみることにしよう。この使い分けは『エチカ』の冒頭第1部の定義から始まっている。

 

(第1部)

定義1 自己原因とは、その本質が存在を含むもの、あるいはその本性が存在するとしか考えられえないもの、と解する。

Per causam sui intelligo id cujus essentia involvit existentiam sive id cujus natura non potest concipi nisi existens.

 

 この使い分けは一見、「存在」と「存在する」というように名詞と動詞の違いに関係しているように見えるのだが、その後の用例をみても、あまり大した違いはないように思われる。だが注意深く読んでいくと、これは能産的自然と所産的自然の区別に対応していることが分かる。

 

定理29備考(抜粋)我々は能産的自然を、それ自身のうちに在りかつそれ自身によって考えられるもの、あるいは永遠・無限の本質を表現する実体の属性、言いかえれば自由なる原因として見られる限りにおいての神、と解さなければならぬ。これにたいして所産的自然を私は、神の本性あるいは神の各属性の必然性から生起する一切のもの、言いかえれば神のうちに在りかつ神なしには在ることも考えられることもできない物と見られる限りにおいての神の属性のすべての様態、と解する。(「エチカ」畠中尚志訳)

Naturam naturantem nobis intelligendum est id quod in se est et per se concipitur sive talia substantiae attributa quae aeternam et infinitam essentiam exprimunt hoc est Deus quatenus ut causa libera consideratur. Per naturatam autem intelligo id omne quod ex necessitate Dei naturae sive uniuscujusque Dei attributorum sequitur hoc est omnes Dei attributorum modos quatenus considrantur ut res quae in Deo sunt et quae sine Deo nec esse nec comcipi possunt.

 

 たいへん重要な部分なので長く引用したが、あたかも交響曲において主題が変奏されて展開されるように、定義1の「本質」と「本性」の区別が、「能産的自然」と「所産的自然」の区別に展開されていることが分かるであろう。

 なぜそんな面倒臭い区別をするのかと言えば、それは福居純が指摘しているように、「自己原因」が作用だからである。スピノザのいう「実体」は何か塊のような物体のイメージではなく、創造の働きそれ自体である。だから創造する側面(能産的自然)と創造される側面(所産的自然)の二つの側面が区別されるのである。

 つまり神は神が創造すると同時に、神は神によって創造されるのである。この働きである存在する力を能産的に見れば、それは本質であり、創造されるものとして所産的に見れば、それは本性となる。つまり神即自然とは、神(essentia)がそのまま自然(natura)ということであり、これが定義1の自己原因の本質essentiaと本性naturaに対応するのである。

 そして、この第三部が「感情の起源および本性について」とあるのは、感情が創造されたものとして所産的自然だからである。スピノザ思想からすると、これを「感情の起源および本質について」とすることは致命的な誤りである。

 こうしてみると、定理5の「物は一が他を滅ぼしうる限りにおいて相反する本性を有する」についても、滅ぼされうるような物は実体ではなく、実体の様態であり、かつそれは持続の相における様態であるから、能産的自然として「本質」ではなく所産的自然としての「本性」を使っていることが分かる。

 それにも関わらず、この「本質」と「本性」との区別が時に曖昧に思われるとすれば、それは所産的自然であるはずの様態である物や人間精神についても「本質」が使用されることがあるからである。この疑問についても注意深く精読すれば、スピノザは様態についても持続相においては「本性」を使用し、永遠相においてのみ「本質」を使用して使い分けていることが分かる。

 

定理4証明(抜粋)物の定義はその物の本質を肯定するが否定しない。(中略)我々が単に物自身だけを眼中に置いて外部の諸原因を眼中に置かない間は、その物の中にそれを滅ぼしうるようないかなるものも我々は見いだしえないであろう。(「エチカ」畠中尚志訳)

 

 「外部の諸原因を眼中に置かない間」とは何を意味するのか? それは自己の外に原因がある場合は、因果関係として時間的持続が生じている(つまり持続相にある)のだが、外部の諸原因をカッコにいれて保留すれば、その物(様態)は「実体の様態」として永遠相にあるということを意味する。

 つまり「能産的自然」とか「所産的自然」という区別はカテゴリーのように定まったものではなく、作用である働きそのものの二側面であるから、物や人間精神が神の変状である限り、それは永遠相において「本質」を持つのである。だが相互に原因となり結果となる持続相においては「本性」を持つということである。

 

 

エチカをめぐる断想(14)

第三部 感情の起源および本性について No2

 

定理4 いかなる物も、外部の原因によってでなくては滅ぼされることができない。(「エチカ」畠中尚志訳)

 

 スピノザの論理からすると人間精神は外部の原因なくして自ら消滅を望むことはありえないのである。自殺者から自殺に至る原因をすべて取り除けば、自殺することはありえないだろう。

 したがって自殺の決意は状況を超越した自由意志による決意ではない。「華厳の滝」の藤村操や芥川龍之介自死が人々に衝撃を与えるのは、原因のない精神の自死のように見えるからであるが、よく調べれば必ず何らかの外部の原因があるはずであって、いわゆる哲学的自殺といえども絶対の自由意志によるものとは思われない。

 スピノザの論理に従うと、自殺とは外部の原因による精神の受動的反応であって、人間の本質から必然的かつ能動的に生じるものではありえないということになる。

 すべてを作用因果系列の必然とするスピノザの世界では、滅びるという結果には必ず外部の作用原因があるのだから、この定理は自明である。問題はそのことの含意である。

 この定理は自殺の否定を神の命令としてではなく、人間の本質(存在を維持する力)によって根拠づけているのであり、私はそこにスピノザによる人間本質の絶対的肯定を認める。

 ところでドゥルーズの場合は、明らかに病気が外的原因であり、あのような重度の病気体質であるにもかかわらず、最高度に精神が充実した生を送ったのではないか、と私は思う。

 

定理6 おのおのの物は自己の及ぶかぎり自己の有に固執するように努める。(「エチカ」畠中尚志訳)

 

 この「自己の有に固執する」ことが「コナトゥス」であるが、この定理の証明は、これまで述べてきたように個物が神の産出力の表現であることに基づいている。この産出力は永遠相においては無限であるが、持続相においては個物相互の原因・結果としての時間的産出過程となる。個物は常に他の個物の結果であると同時に原因でもある。このことは産出力が個物において有限になると同時に、原因である他の個物からの影響を受けない限り、存続するということであり、これが自己の有に固執することである。

 次の定理で、この「自己の有に固執しようと努める努力」を、その個物の現実的本質としているのだから、スピノザの論理では、存在と本質が、産出力によって結びつくことになる。(ドゥルーズが「力」を強調するのは、スピノザの論理に根拠があると思われる)

 スピノザの「本質」は産出力としてそこから「必然的にいろいろなことが生ずる」(定理7証明)のであり、それ「以外のいかなることをもなしえない」のである。

 

定理11 すべて我々の身体の活動能力を増大しあるいは減少し、促進しあるいは阻害するものの観念は、我々の精神の思惟能力を増大しあるいは減少し、促進しあるいは阻害する。(「エチカ」畠中尚志訳)

 

 この定理は後に「喜び」と「悲しみ」の基礎となるのであるから重要である。

 証明は心身並行論を前提とすれば自明であるが、問題は「活動能力」の増大・減少・促進・阻害の意味である。

我々は、精神がもろもろの大なる変化を受けて時にはより大なる完全性へ、また時にはより小なる完全性へ移行しうることが分かる」(定理11証明抜粋)とあるが、完全性と実在性は同じである(第二部定義6)であるから、精神は刺激によってその実在性が大きくなったり小さくなったりするというのである。これは何を意味するのか? 

 つまり私がここで問題にしたいのは、この定理の「思惟能力」とはコナトゥスと同じなのか否かであり、否であるとすればそれは何かである。

 三角形の「内角定理」を肯定することは精神の存続であり、コナトゥスである。コナトゥスは「意志」であり、「意志」とは観念の肯定だからである。このように精神のコナトゥスとは個々の観念を肯定することである。これに対し「思惟能力」とは、精神を構成する個々の観念を増大させる力ではないだろうか。

 人間精神は様々な外部の原因によって刺激され、多くの観念によって構成されるのである。

 幾何学だけに限定しても多くの定理があり、さらにそれは増大しつつある。そしてより多くの読書をして(つまり刺激を受けて)より多くの観念を得ること、これが思惟能力ではないか。

 このように考えると、精神がより多くの観念によって構成されることは、より多くの実在性を得ることであり、それはより大なる完全性(定義6)へ移行することになるのである。そしてそれが「喜び」の感情だというのだ。

 ところで「身体の活動能力を増大」するものの観念が思惟能力を増大させ、そのことが「喜び」の感情もたらすというのは、心身並行論の理屈としては分かるが、表面的に理解する限り、高齢者の私には今一つ納得がいかない。視力は衰えたが、読書の喜びは増すばかりである。

 高齢者になると活動能力の衰えを日々感じている。この定理に従えば、今後の私の人生には悲しみしかないということになるが、スピノザほどの者がそのような否定的なことを言うだろうか。スピノザは「個物」を一般に対する特殊としてではなく、特異性として捉えていた。したがって「個物」の活動能力もまた特異な能力ではないか。

 スピノザの言う「活動能力」とは人間としての一般的活動能力ではない、と私は思う。むしろそのような一般的活動能力こそが、江川隆男の言う、どこにも存在しない「虚焦点」としての目標なのだ。(「スピノザ『エチカ』講義」江川隆男著118頁)

 昔の自分とくらべて心身能力が低下したと思うのは、人間の一般的活動能力を基準として比較しているに過ぎない。だがスピノザの言う「活動能力」とは今現在、自分のなしうる能力である。昔の自分と比較して悲しいのではない。今、自分にできることが何らかの事情でできないから悲しいのだ。100mを10秒で走ることができないから悲しいという人は少ないだろう。それが悲しいのは、頑張れば10秒で走りうる人に限られている。生きている限り、いかなる障害があろうとも、自分にだけできることが必ずある。苦労して自分探しをする必要はない。目の前の現実こそが唯一無二なのだ。それは同一の時空に二つのものが共存できないことから明らかである。私は存在している限り、全宇宙の歴史において唯一無二の経験を奪取している。それが特異性としての活動能力である、と私は思う。

 そんなこと力説しなくても子供にも分かることだが、多くの人はそのことの意味を表象として捉えているに過ぎない。特異性は表象に留まるかぎり因果系列について無知であるから、一個の謎となる。生きている意味が分からないのは、表象に留まっているからだ。スピノザはその先を「第三種の認識」として考察したのである。この特異性の意味が徹底して考察されず、いつもすでに忘却されているとすれば、それは「公共社会」という群れから孤立することへの恐れがあるからだろう。確かに群れに属していれば安心だが、人に比べて無能な自分が見つかるという、あまり直視したくない悲しみが常に潜在している。その安心は悲しみの代償である。

 ハイデッガーの「死への先駆的決意」もまた一般概念として捉えると何の驚きもない概念である。公共社会では「メメント・モリ」として昔から言われてきたことであるに過ぎない。だがそれは、自己の特異性を照らし出す概念だとすれば、どうか? 私はこの概念が公共社会に背を向けた不穏かつ雄々しい概念であるように思う。

 

 

エチカをめぐる断想(13)

第三部 感情の起源および本性について No1 

 まだ第二部の理解は充分とは言えないが、とにかく『エチカ』全体を読み通してから、また再度考え直してみたい。このため第三部へ進むことにする。精神はさておき、少なくとも私には感情があることは確かだ。

 

定理1 我々の精神はある点において働きをなし、またある点において働きを受ける。すなわち精神は妥当な観念を有する限りにおいて必然的に働きをなし、また非妥当な観念を有する限りにおいて必然的に働きを受ける。(「エチカ」畠中尚志訳)

 

 この定理は第二部の次の箇所を再確認したものである。やや長いが重要な箇所なので引用しよう。

 

第二部定理29備考(抜粋) 精神は物を自然の共通の秩序に従って知覚する場合には、言いかえれば外部から決定されて、すなわち物との偶然的接触に基づいて、このものあるいはかのものを観想する場合には、常に自分自身についても自分の身体についても外部の物体についても妥当な認識を有せず、単に混乱し<毀損し>た認識を有するのみである。これに反して内部から決定されて、すなわち多くの物を同時に観想することによって、物の一致点・相違点・反対点を認識する場合にはそうでない。なぜなら精神がこのあるいはかの仕方で内部から決定される場合には、精神は常に物を明晰判然と観想するからである。(「エチカ」畠中尚志訳)

 

 このことから「身体の変状(刺激状態)の観念」が「非妥当な観念」であり、神の延長属性の様態としての物体についての観念が「妥当な観念」であることが分かる。

 物体を神の延長属性として観想することにより、精神が「内部から決定」されることになるのは何故か?

 延長属性と思惟属性とは同一実体(神)の二側面であるから、物体を延長属性の様態として観想することは、観念を思惟属性の様態として観想することでもあるからである。つまり「内部から決定」とは、同一属性の持続相における因果系列のことである。

 だから人間精神は、身体の変状(刺激状態)の観念しか持たないならば非妥当な観念しかもちえず、したがって常に受動的であらざるを得ないのだが、もしも物体と思惟を神の諸属性の下に、その全因果系列を洞察することができるならば、そうした観想は「妥当な観念」であり、「内部から決定」されたものとして能動的に「必然的に働き」をなすのである。必然というと自由はないように思われるが、スピノザにとっては自由意志こそが幻影であって、自己の本性によって必然的に働きをなすことが真の自由であり能動なのである。神もそうであるが、人間にとっても自己のなしうること(自己の本性)を実行することが自由である。例えば私は本を読むことができるのだが、老人が本を読んで何になるという世間一般的評価に負けて、本を読むことをやめることが精神の受動であり不自由なのである。

  以上のように精神の能動・受動に関する定理から始めて、感情の根源である衝動の定理が続く。

 

定理9 精神は明瞭判然たる観念を有する限りにおいても、混乱した観念を有する限りにおいても、ある無限定な持続の間、自己の有に固執しようと努め、かつこの自己の努力を意識している。(「エチカ」畠中尚志訳)

 

 この「自己の有に固執」することがコナトゥスであるが、神の本質である産出力が持続相において生成消滅の因果系列として現れるとき、その本質(産出力)は、有限個物が存続する間だけ自己を維持しようとする力として表現される。

 

「この努力が精神だけに関係する時には意志と呼ばれ、それが同時に精神と身体とに関係する時には衝動と呼ばれる」(定理9備考)(「エチカ」畠中尚志訳)

 

 ここでは「意志」の意味が第二部と異なっているようにみえるが、やはりこの「精神だけに関係する」意志は観念の肯定である。つまり「三角形の内角定理」を肯定することは精神の自己存続である。否定すれば精神は存続できず崩壊するのである。

 スピノザの言葉は正確であって、衝動は身体だけに関係するのではなく、「精神と身体とに関係する」のである。つまりこの場合の「精神」とは「身体の変状(刺激状態)の観念」である。

 したがって「綺麗な女性」をみて感じるのは「身体の変状(刺激状態)の観念」であって、「精神だけに関係する」意志ではないのだ。それは受動的精神であって能動ではない。

 話は飛ぶが、佐藤優が『人生相談(個人編)』において、「2回抜いてから女性を選べ」とアドバイスしているのは適確な助言であって、若い男性は1回抜いたぐらいでは「非妥当な観念」から逃れることができないのである。

 

定理10 我々の身体の存在を排除する観念は我々の精神の中に存することができない。むしろそうした観念は我々の精神と相反するものである。(「エチカ」畠中尚志訳)

 

 これは一見、自殺の不可能性を主張しているように見える。しかし、現実に自殺はある。これをどう解するか? スピノザの考えでは自殺は人間精神の決意によるものではなく、延長物体としての身体の因果関係による死である。思惟属性と延長属性との間に因果関係はない。

 人間精神は身体がなにをなし得るのか知らないし、自死もまた厳密には、他の延長物体を原因とする他死である。不幸かつ不運な出会いがなければ自死もない。

 自殺の決意とみられる「人間精神」は、身体と並行した思惟の動きである。たとえ本人がいかなる否定感情を抱いていたとしても実在として存在している限りポジティブである。自殺者は最後の死に至るまで「自殺者としての生」を肯定的に生きているのである。常識的にみれば、飛び降りたり、首を吊るのは自己破壊のようにみえるが、そのときでさえも身体は実在しており、それに並行する精神は自己の生を表現しているのである。だからスピノザが言っているのは、自殺は他殺であるということだ。他殺が穏当でないなら、自己以外の外部の原因による死である。

 そういえばドゥルーズも自殺したことであるし、やはりスピノザの論理で自殺をどう説明できるのか、稿を改めてじっくり考えてみることにする。

 

 

エチカをめぐる断想(12)

第二部 精神の本性および起源について No10

  しかし、よく考えてみると一般概念というものは妖しいものである。それは確固たるものではなく、とりあえずのものに過ぎない。例えば「神」とか「人間」という概念については、まあ、いろんな人がいろんなことを言っている、ということでしかないだろう。

 なぜ、そうならざるを得ないかと言えば、誰も本当のことは分からず、ただ表象像しか持っていないからだ。つまり因果系列の全体像など、誰も知っていないから、私たちが知っているのは、ただ何らかの表象とそれに対応した言葉だけなのである。それゆえ一般概念とはスピノザの用語では「非十全な観念」ということになる。

 スピノザの「共通概念」は、そのような一般概念ではない。江川隆男によると、「共通概念」とは「端的に言うと、<属性>概念である」ということである。(「スピノザ『エチカ』講義」江川隆男著134頁)

 なるほど、それはそうだ。

 だが、思惟属性も延長属性もやはり言葉でしかない。問題は思惟領域における<無意識-意識>の全因果系列、延長領域における<素粒子-生物>の全因果系列が解明されない限り、「十全な観念」としての共通概念を得たことにはならないのだ。それは神でもない限り不可能である。だから「共通概念」は理念的地平としてのプログラムに過ぎない、と私は思う。

 そう言ってしまえばミもフタもないが、スピノザは安易に神即自然という御託宣によって、実体としての神に諸属性が帰一すると主張するだけでは満足しなかったようだ。

 なぜなら、スピノザは共通概念と「第一種の認識」(想像知)との関連を説明するからである。つまりたとえ表象による迷妄ではあっても、それは「共通概念」へ発展する契機となりうるのであるし、また神ならぬ人間にとっては想像知を出発点とせざるを得ないということである。自然科学は共通概念へ至る素材となりうるのである。

 自然科学は「数」という想像知に基づくのだから共通概念ではなく第一種の認識ではないかという疑問が生じるかもしれない。

 だが自然科学者はその点について思い違いはしていないのであって、例えばファインマンは数学が想像上のものであると『物理学』において述べている。自然科学者は数学を手段として万物の共通概念を探究しているのであって、極端なプラトニズムの信奉者でない限り数学を現実と取り違える者はいないだろう。スピノザもまた書簡で化学実験の提案などもしており、スピノザ思想と自然科学との親和性は疑いようがない。

 前回、共通概念の具体例としてスピノザによる人間精神の定義に触れたが、そもそも共通概念が何であり、またどのようにして共通概念を得るのかその方法論について考えてみよう。共通概念が何であるかは次の定理が示している。

 

定理40 精神のうちの妥当な観念から精神のうちに生起するすべての観念は、同様に妥当である。(「エチカ」畠中尚志訳)

 

 この定理によって共通概念が形成されるのであるから、共通概念は単なる命題ではなく、観念の体系である。「妥当な観念」とは、次のとおりである。

 

定義4 妥当な観念(十全な観念)とは、対象との関係を離れてそれ自体で考察される限り、真の観念のすべての特質、あるいは内的特徴を有する観念のことであると解する。(「エチカ」畠中尚志訳)

 

 この定義は分かりにくいが、前回説明したように、「対象との関係を離れて」つまり想念的本質(思っている内容)を離れて、観念それ自体(形相的本質)としてみると、それは自己原因である神の思惟属性の様態であること、つまり神の本質表現(自己原因の結果)であること、そういう「内的特徴を有する」観念、それが妥当な観念だと言っているのである。

 神の本質表現であるから、権能と力能が一致しているということで「真の観念」(対象と一致した観念)であることは当然である。

 そうした「妥当な観念」から出発して形成された観念の体系が「共通概念」である。

ということは、神の属性である延長属性と思惟属性の各々の一義性を前提として演繹された諸概念は、すべて共通概念であるということであり、「人間精神」の概念がそれを集約していることになる。このことは『エチカ』それ自体が共通概念だということにほかならない。

 したがって、共通概念を得る方法は、『エチカ』の方法に従い、スピノザの公理・定理に基づいてさらに何が帰結するかを自分で探究してみることであろう。

 

 第二部の最後の二つの定理は、人間精神と意志を扱っている。

 

定理48 精神の中には絶対的な意志、すなわち自由な意志は存しない。むしろ精神はこのことまたはかのことを意志するように原因によって決定され、この原因も同様に他の原因によって決定され、さらにこの後者もまた他によって決定され、このようにして無限に進む。(「エチカ」畠中尚志訳)

 

 この定理をよく読むと、スピノザは自由意志を否定しているのであって、意志それ自体は否定していないことが分かる。自由意志とはある特定のシチュエーションから離れて、超越的な立場で決定をくだすことであり、精神の中にそのような絶対的な意志はない、精神の中にある意志は、常に他の原因によって決定された意志だというのである。

 これはすべてを必然とみるスピノザ思想の当然の帰結であり、なんら驚くにあたらない。

 驚くべきは、ではその決定された「意志」とは一体何か、それを次の定理が解明していることである。

 

定理49 精神の中には観念が観念である限りにおいて含む以外のいかなる意志作用も、すなわちいかなる肯定ないし否定も存しない。(「エチカ」畠中尚志訳)

 

 例えば三角形の内角定理の観念とは、三つの角の和が二直角に等しいことを精神に肯定させることである。そしてこの肯定は、三角形の観念を原因としている。三角形の観念という原因がなければこの肯定もない。ゆえに観念の肯定は、決定された肯定ということになる。そしてこの肯定が「意志」であり、それ以外に意志はないというのだ。

 だから何かを欲するというような通常考えられている「意志」は原因の認識が欠けた誤謬であり、「意志」ではないのである。我々はなぜ欲するかを知らずに、それが自分の意志だと勘違いしているのである。

 などとスピノザの入門書などには書いてあるのだが、私が知りたいのはそんなことではない。たとえ原因が分からなくても、また他から強制されたものであろうと、とにかく私が何らかの対象を欲しいと思っているのは確かであり、スピノザも「決定された意志」の存在を否定していない。それなら、なぜ意志が、観念の肯定に限定されてしまうのか、これである。

 その理由はスピノザが延長属性と思惟属性を実在的に区別していることにあるようだ。

 つまり思惟属性の様態である観念は、延長とは実在的に異なるのであり、延長対象と観念とを取り違えてはならないのである。

 持続相において観念が相互に原因となり結果となるという因果系列は、したがって延長対象による因果系列と並行しているだけで、観念と延長との間には何の因果関係もないのである。

 したがって「精神はこのことまたはかのことを意志するように原因によって決定され」という場合の「このことまたはかのこと」とは、延長対象ではなく観念なのである。だから観念の肯定が「意志」となるのだ。

 なるほど、だがしかし、その観念が「綺麗な女性」であるとしたらどうか?

 それこそが延長を観念と取り違えているということである。「綺麗な女性」の観念とは、神の思惟属性の有限様態としての観念である。

 私は延長物体としての「綺麗な女性」から受ける刺激(視覚だが)についての観念を知るのみであり、それを「意志」と勘違いしているのだが、「綺麗な女性」の観念それ自体については何も知らず、したがって私の精神は何も意志していないのである。

 

 

エチカをめぐる断想(11)

第二部 精神の本性および起源について No9

 さていよいよ「共通概念」であるが、その名称から受ける印象と異なり、私が通常考えている「概念」とはまったく別物のようだ。

 共通概念は人間が「非十全な認識」から「十全な認識」へ至るうえで不可欠のものである。

 すると次に提起される問いは、人間が元々「非十全な認識」を持つ運命にあるのであれば、なぜスピノザは「十全な認識」をもって『エチカ』を書くことができたのかである。

 スピノザに言わせれば、「それは私が人間を捨てたから」と答えるかもしれない。さらに、「人間を捨てたから、誰もがもっている共通概念に特別な意味を見いだすことができた」ということであろう。

 さて比喩的に「人間を捨てた」ということの意味は、次の定理で示されている。

 

定理37 すべての物に共通であり、そして等しく部分の中にも全体の中にもあるものは、決して個物の本質を構成しない。(「エチカ」畠中尚志訳)

 

 言い換えれば共通概念は個物としての私の本質を構成しないということだ。そして人間が「十全な認識」に至ることができるのは、私を構成しない共通概念が私の中にあるからである。

 ではこの「中にある」とはどういう意味か?「構成する」とどう違うのか?

 別に難しいことを言っているのではないと思う。

 例えば素粒子は私の中にあるのだが、私の構成関係(本質)を素粒子が構成しているのではない。素粒子はあくまで構成関係の素材であって構成関係自体とは異なるものである。そういう意味で万物に共通する素粒子は私の中にあるが、私の本質を構成しない。

 実際、定理37の証明には定義2と補助定理2とが援用されているのだが、それは物体が延長属性として共通点をもつということである。

 同様に人間精神は部分的諸観念で構成されているが、それらの諸観念は万物に共通する非人間的な諸観念であって、私という人間精神の構成関係の素材であるが、構成関係自体とは異なるものである。

 そして、このことは私を延長属性や思惟属性の様態としてみる限り、その様態である諸物体や諸観念は私の本質(構成関係)を構成しないことを意味する。いわば私を神の様態としてみると、その時、私の本質は解体するのである。私を構成するのは共通物(素粒子、諸観念)そのものではなく、それらの共通物に変状した神が自己原因として産出した構成関係(本質)であるからである。

 例えば「AならばBである」という命題(観念)Cは、観念Aと観念Bの思想内容を含んでいる。そういう意味では観念Cは観念AとBから独立したものではない。

 だが人間精神はこの観念Cには該当しない。なぜなら自分を構成する観念AとBの思想内容を知らないからだ。言い換えれば人間には細胞の気持(細胞の観念)は分からない。人間精神は、観念Aと観念Bから新たに生じた(構成された)独立の観念Cであり、観念AとBに変状した神の自己表現(結果)としてのCである。それが私の本質(構成関係)である。

 このことは何ら私の優位性を意味しない。むしろ私とは原因を知らずに構成された結果(表現)にすぎないのである。だが原因は知らないが、私が様々な諸物体・諸観念から構成された結果であると知っている限りでは、第一種の認識(表象による認識、いわば結果のみの認識)も誤謬ではないとスピノザは言っている。なぜなら、そのことは私の本質(構成関係)とは別に、構成の素材としての共通物が私の中にあることを知ることであり、そこから出発して私だけでなく万物の共通概念を得ることができるからである。

 問題は『エチカ』において、この共通概念の根拠として説明されているものが延長属性による共通点のみであることだ。だから共通概念の考え方は理解できても、それが具体的に何であるかが今一つ分からないのである。多くの解説書を参照したが、そのことをズバリ明快に説明しているものは見当たらない。

 『エチカ』の説明によると、ないないづくしではないが、共通概念が一般的概念と異なることが示されている。つまり一般的概念とは第一種の認識である表象像が多数オーバーラップしたものに過ぎない。だから刺激状態が各人によって異なるのだから、人によってオーバーラップが異なることになる。そこで、一般的概念としての人間は、人によって「笑う動物」「羽のない二足動物」「理性的動物」などと分かれるのである。

 だが共通概念としての人間がいかなるものであるかは示されていない。

 するとスピノザは一般的概念を「第一種の認識=表象による想像的認識」として批判するだけで、その代案を示さなかったのであろうか?

 実はスピノザはすでに共通概念としての人間が何であるかを示していたのである。

 それこそが「人間精神は、身体が受ける刺激(変状)の観念によってのみ人間身体自身を認識し、またそれの存在することを知る」(定理19)である。

 なぜこれが共通概念かといえば、この定義は人間だけでなく、動物にも共通に適用できるからである。またスピノザの考えでは物体一般にも適用できるのであり、人間と動物と物体との違いは程度の差に過ぎない。「人間とは理性的動物である」との違いは明瞭であろう。

 

定理13備考(抜粋) 人間にあてはまると同様その他の個体にもあてはまる。そしてすべての個体は程度の差こそあれ精神を有しているのである。(「エチカ」畠中尚志訳)

 

 こうしてみると、スピノザのいう「概念」とはすべて「共通概念」なのであり、究極的には同一属性による共通点を根拠としているのであるが、それを根拠として演繹される様々な概念は一般的概念ではなく、共通概念なのであり、あらためてそれが何であるかを示す必要はないのである。

 ところでドゥルーズは特異性が普遍性に達するのは「反復」によってのみだと主張している。(「差異と反復」)つまり特殊なものについては法則として一般性に到達しうるし、またそれがいわゆる科学でもあるが、特異な個体(かけがえのないもの=代替不可能なもの)についての科学は成り立たないのである。それが普遍性に達するには、ただ繰り返すしかない。詩の本質に到達するには、ただ暗唱するしかないのである。

 スピノザの個体もまた特異性であるがゆえに「一般的概念」ではなく「共通概念」に到達するのであれば、「それを根拠として演繹される」という言葉の意味は、一般-特殊の種差による否定的的抽象ではなく、「反復」による肯定的抽象を意味するのかもしれない。ここはまだ私も直感的にそう思うだけで未整理だが、「共通概念」と「反復」との関係はあらためて考えてみたい。

 

 

エチカをめぐる断想(10)

第二部 精神の本性および起源について No8

 この第二部を読んでいるうちに、次第にスピノザの言う「人間精神」が謎めいてくるのを感じる。

 人間精神は身体を構成する諸個体の観念によって構成されるのだが、しかし、人間精神は自分を構成する諸個体の観念を認識できないのである。

 

人間精神は人間身体自身を認識しないから、(略)人間精神はその限りにおいて自分自身を認識しない。(定理23証明抜粋)(「エチカ」畠中尚志訳)

 

 つまり人間精神は単一の精神ではなく諸個体の観念の複合体であるが、同時に自分を構成している部分を認識しないのである。このことは、現代風にみれば臓器感覚が曖昧であることや心が無意識によって成り立っていることなどから、概ね納得できる。

 今一つ疑問に思うのは、では「人間精神」とは無数の諸部分の観念集合につきるのであって、そうした集合とは別個の一つの観念とみることはできないのか、これである。

 このことはスピノザのいう「観念の連結」が一体何を意味するのかが、私には未だによく分かっていないことを意味する。

 思えばスピノザは「関係」概念を表立って明確にしていない。スピノザの「関係」概念としては、「因果関係」以外に「連結」「秩序」「構成」「組織」「観念の対象」「観念の観念」などがあるが、それらは「因果関係」と異なるのか否か、異なるとすればどの点が異なるのか、このことが明確でない限り、諸観念によって「構成」される「人間精神」が分かったことにはならないのだ。

 だが、それはスピノザだけではない。およそすべての哲学者が当然のこととして使用している「関係」概念が、いかなるものであるか、実はそれほど明確ではないのである。あらためて「関係」とは何かと問われて、明確に説明できるだろうか?

 「一対一対応」というのは「関係」を「対応」に置き換えているに過ぎない。「関係」概念を自明の前提として、そのあり方(一対一)を定義しているに過ぎない。

 そこで私は一つの仮説を立てることにした。

 それはスピノザにとって関係とは「因果関係」以外に存在しないという仮説である。少なくともスピノザは数を想像知として様態(変状)領域の幻影としていたのだから、一対一対応のような関数的関係概念を非本質的としているのは間違いない。また神の産出力を存在の本質としていたのだから、自己原因=自己結果の因果関係こそがスピノザにとっての本質なのである。

 私達が通常理解している「因果関係」とは持続相における作用原因と結果との時間的因果関係であるが、スピノザにとっての「因果関係」とは持続相だけでなく、永遠相における自己原因と結果との無時間的永遠としての「因果関係」もある、というかそれこそが本質なのである。(自己原因は結果を含むのだから無時間的因果関係である)

 そして「連結」「秩序」「構成」「組織」「観念の対象」「観念の観念」などの諸関係概念は、実は永遠相における無時間的因果関係である、と私は解釈する。

 私達は普段あまり意識せずに「関係」という言葉を使用しているが、つきつめて考えるとそれらの「関係」は常に「本質的関係」ではないか。

 スピノザにとって「本質」とは自己原因としての神の産出力である。したがって、時間的因果関係以外の本質的関係を、永遠相における自己原因の「無時間的因果関係」とするのは無理のない解釈ではないかと思う。

 

観念の観念というものは実は観念-その対象との関係を離れて思惟の様態として見られる限りにおいて-の形相(本質)にほかならない(定理21備考)(「エチカ」畠中尚志訳)

 

 この「思惟の様態として見られる限りにおいて」とは、まさに「観念の観念」が自己原因(神)の様態であること、つまり「無時間的因果関係」の表現(結果)であることを意味している。だから「観念の観念」は観念による観念の産出であり、それは神の産出力であるがゆえに、「形相(本質)にほかならない」のである。

 さらにスピノザの「表現」とは、永遠相における自己原因の結果のことである。それは自己原因に含まれるものとしての無時間的結果にほかならないのだが、「結果」が持続的時間を連想させるので、「表現」という用語に代わったに過ぎない。だから「表現」という言葉が出て来ると、それは自己原因の(無時間的)結果と考えればよいことになる。

 神の創造は永遠のものとして無時間的に凍結されたホログラフのようなものである。いわば無限の持続相全体が、「全体として一挙に」(福居純)創造されているのである。

 ドゥルーズもまたスピノザの「表現」概念には説明・展開explicatioと内包complicatioの二つの側面があり、それが能産的自然と所産的自然の根拠となるものとして、「表現」の絶対的先行性を主張している。(「スピノザと表現の問題」)

 これらの諸研究を踏まえれば、要するに実体(神)とは「表現」そのものなのだ。実体という語感から神を同一性ととらえるのは誤解である。スピノザの実体(神)は差異であって、永遠における自己原因と自己結果との無時間的因果関係=「表現」そのものなのである。それが、福居純のいう「神の脱中心化」の意味である、と私は思う。

 ところで「観念」というと私はすべて無時間的という印象をもつのだが、スピノザは「観念」についても永遠相と持続相の二面がある、つまり観念の原因も二つあると考えていたようである。特に「観念の秩序」という場合は、「物の秩序」と照応するものとして持続相の因果関係を考えていたように思われる。

 したがって延長物体が作用原因→結果という持続的因果関係をもつように、観念もまた「AならばB」というように推論的因果関係をもっている。これは一見すると無時間的関係のように見えるのだが、Aという前提による結果なので前後関係がある。

 したがって観念の原因にも持続相における推論的因果関係としての原因と、永遠相において観念が自己原因(神)による様態であるという無時間的因果関係としての原因の二つがある、と私は思う。

 定理21備考の「その対象との関係を離れて思惟の様態として」というのは難解だが、私は次のように考えている。

 観念が観念対象をもつと、その観念は想念的本質をもつ(つまり考えている内容をもつ)ことになり、そのことは他の観念を生じさせる原因となる。これは生成消滅する持続相における推論的因果関係である。しかし、観念が観念対象との関係を離れて、観念自体としてとらえられると、それは神の様態として観念の形相(本質)となる。これは自己原因の表現的結果としての無時間的因果関係である。

 以上のように考えると、「人間精神」を諸観念による構成関係とすることの意味が明瞭になる。

 この「構成関係」とは、部分の集合でもなく、推論関係でもない。したがって、部分の想念的本質(部分の観念が考えている内容)を含まないのだ。

 この「構成関係」は推論関係ではなく、自己原因の無時間的因果関係なのだ。だから、人間精神は自分を構成する部分観念の想念的内容を知らないのである。

 では人間精神が知っているものとは何か。

 スピノザによるとそれは身体の変状(刺激状態)の観念ということだが、例えばボールの球が当たったとき、私は私の痛みを感じるのであり、私を構成する細胞個々の痛みを感じるのではない。この「私の痛み」とは何か?

 部分観念によって構成された人間精神もまた一箇の観念である。だから「私の痛み」とはこの一箇の観念が感じることであろう。それは構成されたものとしての観念が感じる身体の変状である。

 ではこの人間精神はそれを構成する諸観念からどのように生じたのか?

 繰り返しになるがそれは推論的因果関係ではなく、構成する諸観念に変状した神が自己原因となって人間精神を産出したのである。

 だから、構成関係こそが人間精神の本質であり、神の産出力を表現する一箇の観念なのである。それは持続相においては現実的本質として滅びるが、永遠相において形相的本質として残るのである。