「差異と反復」についての断想(1)

 当ブログは「小説だけの~」と銘打っているが、あまり堅苦しく考えず、小説を読み解くためのツールとして、哲学についても思いついたことをメモしておくことにする。

 

 永遠回帰における思考の選別的な働きによって、永遠回帰それ自身における反復の特異性によって、おまえの欲するものが何であろうと、おまえの欲するものを「n次の」力へもたらすこと〔n乗すること〕、すなわち、そこから最高の形相を取り出すこと。存在するすべてのものの最高の形相にこそ、永遠回帰と超人との直接的な同一性があるのだ。

(「差異と反復」ジル・ドゥルーズ著 財津理訳 河出書房新社版29頁)

 

 ドゥルーズは一般性-特殊性の系に対して、普遍性-特異性の系を優位におくのだが、それは人間性一般を超えるためである。「超人」とは、人間性の一般的価値の完全体ではなく、人間性一般からはズレた特異な存在である。それゆえ、貧者や病人であっても、「普遍性-特異性」の系を志向する者は、「超人」への萌芽を内に秘めていることになる。病人が弱者だというのは、人間性一般の視点に立つ価値評価であるにすぎない。特異性の視点でみると病人は実在として完全無欠である。

 したがって問題は「特異性」をいかに考えるかである。まさに特異性は特異であるがゆえに一般的認識とはなりえない。特異性についての科学は成立しないように思われる。

 ところでスピノザの「共通概念」については、専門の研究家ですら、これを一般概念と勘違いして解説している例が見受けられるが、それは誤解である。

 なぜならスピノザのいう「個物」は特異性であって、特殊性ではないからだ。スピノザがAとBの二つの個物が遭遇し、両者に共通の概念を得るというとき、それは特殊なAとBを包摂する一般概念を得るという意味ではない。AとBとの関係はそれ自体が特異であり、他との比較を絶したかけがえのない関係である。法則として観測されうるような遭遇ではなく、唯一無二の遭遇である。したがって共通概念は一般概念でもなければ、いわゆる科学でもない。

 ならば「共通概念」とは一体何か?

 私見ではニーチェのいう「永遠回帰」が「共通概念」であると考える。「特異性」を一般表象として捉えるのではなく、特異性そのものとして本質を把握するには、ただ反復するしかない。かけがえのないものについての一般概念はありえない。それはただ繰り返すしかないからだ。もしも「特異性」についての科学が成り立つとしたら、それは「反復の特異性」としてのみであろう。反復によって「最高の形相を取り出すこと」とは、特異性の本質を一般表象によらずに把握するには反復しかないこと、つまり永遠回帰が特異性の本質だということを意味すると、私は解する。したがって永遠回帰という最高の形相を諦めるならば、私たちは特異なものと偶然出会うしかなく、特異性の本質を捉え損なうのである。永遠回帰は仮説なのか? はっきりしているのは、永遠回帰が真理であるか否かは問題ではないということである。もしも永遠回帰という共通概念が存在しないならば、私たちはかけがえのないものを永遠に喪失するのであり、かけがえのないものにはいかなる本質的意味もなかったということになるのである。そして現代社会のように一般性の中で自己否定として生きるしかないのである。

 「永遠回帰と超人との直接的同一性」とは、超人という人間性一般を超えた者は、特異な者であるから、その特異性の本質が永遠回帰と同一であるという意味である。自分自身を特異性として捉える者は、自分について一般-特殊の系に基づく表象を持つことはできない。他人とは違う自分らしさなどはまだ一般的表象にすぎない。真の特異性は表象なき反復によって捉えるしかないのである。ゆえに超人とは自分を反復として捉えるものであるから、それは同時に永遠回帰である。

 「特異性」の例として、我が子や恋人やペットなどが、かけがえのないものとしてよく引き合いに出されることがあるが、まだ生ぬるい。依然として世間一般の道徳主義の匂いがして徹底性に欠ける。「特異性」について底の底まで考えつくすならば、私が目にする風景、世界それ自体が、他とかけがえのない、私だけの特異なものである。これらとの遭遇は私だけの特異な唯一無二の遭遇である。驚くべきは、単に世界が存在しているということではなく、私と世界の遭遇が特異であること、そのことの本質的意味を一般的表象として捉えることはできず、ただ反復によってしか捉えることができないことである。ゆえに「ボエーム」のミミは超人である。なぜなら「雪解けの季節がやって来る時、最初の太陽は私のもの」と歌うからである。ミミを特異性として捉える限り、その主張は誰も否定できない。たとえ貧者であっても、それは一般的価値評価にすぎず、特異性とは何の関係もない。またそれは自我の主張でもなく、特異性は非人称的経験である。太陽-ミミの特異な複合関係はいかなるものにも還元されえず、自我という主体がそうした関係と別個にあるとするのは幻想である。

 ただこの特異性との遭遇を偶然にまかせるだけならアマチュアである。特異性の本質を反復として捉えることができるものが芸術家であり、超人である。超人といっても、過剰な表象にとらわれてはならない。超人はスーパーマンのような表象ではない。ただ人間性一般とは別の存在であり、その特異性は表象ではなく反復として生きるしかないものである。画家も音楽家も偶然美しいものと遭遇するのではない。美しいものが何であるかを知っているから創造できるのである。それは一般表象として知っているのではなく、反復によって本質を捉えているのである。作品を繰り返し創造することが、特異性の本質すなわち私と対象との「共通概念」を知っているということである。もちろん芸術家は自由意志で作品を創造しているのではない。美の本質が芸術家を通して反復しているのである。