エチカをめぐる断想(15)

第三部 感情の起源および本性について No3

 

定理5 物は一が他を滅ぼしうる限りにおいて相反する本性を有する。言いかえればそうした物は同じ主体の中に在ることができない。(「エチカ」畠中尚志訳)

Res eatenus contrariae sunt naturae hoc est eatenus in eodem subjecto esse nequeunt quatenus una alteram potest destruere.

 

 この定理は読めば意味は分かる。私が気になるのは、それは最初から気になっていたことでもあるが、いったいスピノザは「本質」essentiaと「本性」naturaとを、どう使い分けているのかである。スピノザほどの厳密な思考をする人が単なるフィーリングで使い分けているとは思えない。この疑問は長い間シコリになって、様々な解説書を渉猟したのだが、あまりにも初歩的な疑問なのかどこにも説明は見当たらなかった。だが、私は逆にこの疑問こそが根源的な問いであり、この二つの言葉の違いの意味が分からなければスピノザ思想が分かったことにならないと思うようになった。そこで徹底的に考えてみることにしよう。この使い分けは『エチカ』の冒頭第1部の定義から始まっている。

 

(第1部)

定義1 自己原因とは、その本質が存在を含むもの、あるいはその本性が存在するとしか考えられえないもの、と解する。

Per causam sui intelligo id cujus essentia involvit existentiam sive id cujus natura non potest concipi nisi existens.

 

 この使い分けは一見、「存在」と「存在する」というように名詞と動詞の違いに関係しているように見えるのだが、その後の用例をみても、あまり大した違いはないように思われる。だが注意深く読んでいくと、これは能産的自然と所産的自然の区別に対応していることが分かる。

 

定理29備考(抜粋)我々は能産的自然を、それ自身のうちに在りかつそれ自身によって考えられるもの、あるいは永遠・無限の本質を表現する実体の属性、言いかえれば自由なる原因として見られる限りにおいての神、と解さなければならぬ。これにたいして所産的自然を私は、神の本性あるいは神の各属性の必然性から生起する一切のもの、言いかえれば神のうちに在りかつ神なしには在ることも考えられることもできない物と見られる限りにおいての神の属性のすべての様態、と解する。(「エチカ」畠中尚志訳)

Naturam naturantem nobis intelligendum est id quod in se est et per se concipitur sive talia substantiae attributa quae aeternam et infinitam essentiam exprimunt hoc est Deus quatenus ut causa libera consideratur. Per naturatam autem intelligo id omne quod ex necessitate Dei naturae sive uniuscujusque Dei attributorum sequitur hoc est omnes Dei attributorum modos quatenus considrantur ut res quae in Deo sunt et quae sine Deo nec esse nec comcipi possunt.

 

 たいへん重要な部分なので長く引用したが、あたかも交響曲において主題が変奏されて展開されるように、定義1の「本質」と「本性」の区別が、「能産的自然」と「所産的自然」の区別に展開されていることが分かるであろう。

 なぜそんな面倒臭い区別をするのかと言えば、それは福居純が指摘しているように、「自己原因」が作用だからである。スピノザのいう「実体」は何か塊のような物体のイメージではなく、創造の働きそれ自体である。だから創造する側面(能産的自然)と創造される側面(所産的自然)の二つの側面が区別されるのである。

 つまり神は神が創造すると同時に、神は神によって創造されるのである。この働きである存在する力を能産的に見れば、それは本質であり、創造されるものとして所産的に見れば、それは本性となる。つまり神即自然とは、神(essentia)がそのまま自然(natura)ということであり、これが定義1の自己原因の本質essentiaと本性naturaに対応するのである。

 そして、この第三部が「感情の起源および本性について」とあるのは、感情が創造されたものとして所産的自然だからである。スピノザ思想からすると、これを「感情の起源および本質について」とすることは致命的な誤りである。

 こうしてみると、定理5の「物は一が他を滅ぼしうる限りにおいて相反する本性を有する」についても、滅ぼされうるような物は実体ではなく、実体の様態であり、かつそれは持続の相における様態であるから、能産的自然として「本質」ではなく所産的自然としての「本性」を使っていることが分かる。

 それにも関わらず、この「本質」と「本性」との区別が時に曖昧に思われるとすれば、それは所産的自然であるはずの様態である物や人間精神についても「本質」が使用されることがあるからである。この疑問についても注意深く精読すれば、スピノザは様態についても持続相においては「本性」を使用し、永遠相においてのみ「本質」を使用して使い分けていることが分かる。

 

定理4証明(抜粋)物の定義はその物の本質を肯定するが否定しない。(中略)我々が単に物自身だけを眼中に置いて外部の諸原因を眼中に置かない間は、その物の中にそれを滅ぼしうるようないかなるものも我々は見いだしえないであろう。(「エチカ」畠中尚志訳)

 

 「外部の諸原因を眼中に置かない間」とは何を意味するのか? それは自己の外に原因がある場合は、因果関係として時間的持続が生じている(つまり持続相にある)のだが、外部の諸原因をカッコにいれて保留すれば、その物(様態)は「実体の様態」として永遠相にあるということを意味する。

 つまり「能産的自然」とか「所産的自然」という区別はカテゴリーのように定まったものではなく、作用である働きそのものの二側面であるから、物や人間精神が神の変状である限り、それは永遠相において「本質」を持つのである。だが相互に原因となり結果となる持続相においては「本性」を持つということである。