エチカをめぐる断想(19)

スピノザの感情論>(承前)

 精神の能動・受動については前述のとおりだが、身体にも能動・受動があるのか? 精神と身体は並行しているのだから、おそらくあるのだろう。

 問題は精神の能動・受動は、精神活動の原因が<十全な観念>か<非十全な観念>かで説明できたのだが、身体の場合はどうなるのか、である。

 スピノザが能動とか自由とか言う場合、それは神をモデルにしているのである。「エチカ」の幾何学的秩序のように、自己原因としての本質が展開explicatioして存在となる、それが能動であり自由である。

 

第一部定義7 自己の本性の必然性のみによって存在し・自己自身のみによって行動に決定されるものは自由であると言われる。これに反してある一定の様式において存在し・作用するように他から決定されるものは必然的である、あるいはむしろ強制されると言われる。 

第三部定義2(抜粋) 我々の本性のみによって明瞭判然と理解されうるようなあることが我々の内あるいは我々の外に起こる時、私は我々が働きをなす[能動]と言う。(「エチカ」畠中尚志訳)

 

 したがって人間には本来自由はありえないのだが、もしも人間が自己の本性のみから行動するならば、それは自由とまでは言えなくても、能動と言いうるのである。神の自由・能動には及ばないが、神の変状として部分的に能動性を認めることができるのである。それは自己の存在を維持しようとするコナトゥスが、神の創造の反照であるのと同様である。

 このことを延長身体にあてはめれば、もし人間身体の本質のみから行動するならば、それは自己の身体のみを全原因とするがゆえに、能動であると言いうる。逆に外部の個物に刺激されて人間身体が反応するならば、それは外部の本質と身体の本質の双方を原因とする反応であるがゆえに、部分的原因による行動であるから、それが身体の受動である。

 こうした身体の能動・受動と精神の能動・受動が心身並行論によって、両者が並行して生成するのである。それを「エチカ」に即して確認してみよう。

 私が躓いたのは次の定理である。

 

第二部定理16 人間身体が外部の物体から刺激されるおのおのの様式の観念は、人間身体の本性と同時に、外部の物体の本性を含まねばならなぬ。(「エチカ」畠中尚志訳)

Idea cuiuscumque modi, quo corpus humanum a corporibus externis afficitur, involvere debet naturam corporis humani et simul naturam corporis externi.

 

 最初これを読んだとき、スピノザは矛盾したことを言っているように思われた。なぜなら、もし人間精神が外部の物体の本性を含む観念を有するならば、それはまさに「十全な観念」であるから、人間精神は常に能動となるはずである。ところがスピノザは身体の変状についての観念は、部分原因であり「非十全な観念」だとしている。これをどう解するか?

 この定理を注意深く読むと「物体の本性」と言っており、「観念の本性」とは言っていない。確かに心身並行論によれば「物体」は延長と観念を両方有するのであるから、「物体の本性」に「観念の本性」が含まれるように思ってしまう。(最初に私はそう思った)

 だが原文と照合してみると、「人間身体」と「外部の物体」は、それぞれcorporis humanicorporis externiとあり、双方ともにcorporisを使用している。そして文脈からみて、「人間身体」が観念(思惟属性)とは区別される延長物体であることは明らかであるから、ここでいう「物体」は延長属性としての物体に限定されている、と私は解する。

 長々と語義詮索してきたが、結局、この定理が述べている「外部の物体の本性」とは延長属性のことなのだ。そして延長属性についての観念は、思惟属性についての観念を欠くがゆえに、想念的有としての観念であり、形相的有としての観念ではない、と私は解する。そして形相的有としての観念のみが産出原因となりうるのだから、想念的有としての観念(表象知)は、自らの本性による産出原因とはならない、つまり受動となるのである。

 そのように解すると人間精神は外部物体の延長本質の観念を含む(だからこそ自然科学が成り立つ)が、外部物体の思惟属性としての本質は含まない、したがって「非十全な観念」だということが分かる。

 つまり木から落ちたリンゴが頭にあたると、痛いと感じ、リンゴが延長物体であることを認識するが、リンゴの痛みや考え(リンゴの思惟属性)は分からないということである。これはリンゴを擬人化しているのではない。逆である。人間の思惟を脱人間化しているのだ。

 常識ではリンゴが考えるというのは面妖と思われるが、心身並行論からすると、リンゴは人間の思考とは異なった様式で考えているのである。例えばそのリンゴを食べると、リンゴを構成する原子は分解され、一部は人間身体の構成関係に取り込まれ、一部は排出されることになる。そして身体を構成する原子の観念によって、人間精神が構成されているのだから、まさにリンゴが考えていることを人間精神が取り込んでいるのである。

 考えてみれば、人間身体は数ヶ月で入れ替わるのだから、日々の摂食活動によって、常に外部の物体を取り込んでいるのである。そして「人間精神とは身体の観念である」というスピノザのテーゼを徹底するならば、人間精神は外部の物体が有する観念によって構成されているとも考え得るのである。(もちろん、それは人間精神の「構成関係」を度外視したうえでの話だが)そう考えれば、外部の物体が観念を持つという、スピノザの主張がそれほど奇異ではないというか、まさにその主張の上に心身並行論が必然的に成り立っていることが分かる。

 

 以前、私は「活動能力」について、それは一般観念ではなく、今現在の自分がなしうることだと解釈した。それは直感的な解釈だが、江川隆男の見解によってさらに整理することができる。つまり「今現在の自分がなしうること」とは、自己の身体の本性なのだ。そして自己の本性に基づいて行動することが能動なのである。

(補足:江川隆男は本質とは「活動力能」だと言う。したがって活動力能が変化するということは「本質」もまた「本質の変様」なのだと指摘している。これは永遠不変の本質観の顛倒であり、実に得るところの多い名著だ。「スピノザ『エチカ』講義」江川隆男著191頁)

 したがって身体の活動能力が「より大きくなる」とは、100mを10秒で走れるようになるというような、一般観念としての活動能力が大きくなるということを意味するのではなく、自己の行動がより能動的になるということである。それは受動性に対してより能動的だから、完全な能動性ではない。つまり能動と受動との差異的強度として「より大きくなる」のである。スピノザはそのことについての観念が喜びの感情をもたらし、逆に「より小さくなる」ことが悲しみの感情をもたらすとしている。

 スピノザがそれらをすべて精神の受動としているのは、喜びがたとえ能動的感情であるとしても、感情であるかぎり受動性であるからだ、あくまで「より能動」なのである。それは当然であって、人間のいかなる主体的と見える行動であっても、それは外界との出会いに対する受動的反応なのだ。たとえば「エチカ」を読むと言う行為は、一見純粋の能動のようにみえるが、実際は受動的に「エチカ」と遭遇した反応にほかならない。だが、他方、「エチカ」を読むことができるのだから、やはりできることを行うのは喜びである。

 まだ第三部は理解不十分であるが、スピノザは後の部で種明かしすることが多いので、先に進むことにする。